2011/03/22号◆ゲスト報告「震災の惨害そして希望 ~ NCI研究者がみた日本の不屈の精神」 | 海外がん医療情報リファレンス

2011/03/22号◆ゲスト報告「震災の惨害そして希望 ~ NCI研究者がみた日本の不屈の精神」

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2011/03/22号◆ゲスト報告「震災の惨害そして希望 ~ NCI研究者がみた日本の不屈の精神」

同号原文

NCI Cancer Bulletin2011年3月22日号(Volume 8 / Number 6)

日経BP「癌Experts」にもPDF掲載中~

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◇◆◇ ゲスト報告 ◇◆◇

震災の惨害そして希望~NCI研究者がみた日本の不屈の精神

日本で起こった地震と津波による恐ろしい出来事とその影響がテレビやコンピューター・スクリーンに映し出され続けるにつれて、どのようにすれば一国がこのような惨禍から再生できるのか想像に窮する。しかし、私は直接の体験に基づいて、日本の将来に大きな希望を抱いている。

一部の方はご承知のように、NCIは日本のがん研究団体と長期にわたる活気に満ちた関係にある。常に何十人という日米の科学者や研究者が、各種研究プロジェクトの共同研究やトレーニング参加または講演のために両国を往来している。私の直近の、そして最も心に残るものとなった日本での講演は、偶然にも3月11日金曜日であった。

私は日本で開催された国際会議に招かれ、短い発表と一部の会議出席者との討論会参加を依頼されていた。講演の場所は東京から電車で南へ30分の川崎市にあるオフィスビルの11階であった。

講演を始めてわずか10分ほどの日本時間午後2時46分、地震があった。カリフォルニア州南部に住んで8年になる私は、いくらか地震に慣れていた。しかし、それは本当に今までに経験したことのないものであった。

比較的小さな微震に始まって、ゆっくりではあるが着実に揺れが大きくなり、最後には急カーブのあるジェットコースターと激しい乱気流に巻き込まれた飛行機を合わせたようなものになった。建物が揺れているのは明らかであり、ハリケーンの暴風に吹きつけられる樹木のように感じられた。私は立っていたが、私より地震にはなれている主催者たちが落ち着いて座るように教えてくれた。揺れが20~30秒ほど続いて、会議室のテーブルの下にもぐるように勧められた。

最初に思い浮かんだことのひとつが、もし地震が近くであるとしたら、日本のエンジニアによって設計され日本の規準に則して建てられた建物の中が一番よいとのことであった。乗り物酔いでも起こしそうだとぎこちなく冗談を言いあったが、地震が早く止まってくれることを本気で願っていた。仲間の目をのぞきこみながら、頭の中にさまざまな考えが浮かんでは消えて、疑問が渦巻いていた。震源地はどこか。どの程度の規模なのか。

ひとつだけはっきりしていた。これはいつもの地震ではない。

微震が止むとすぐに私たちは一列になって11階分の階段を降りて大きな中庭に出た。私は周りの人たちの徹底した秩序としっかりとした心構えに感心せずにはいられなかった。

下に集まると、情報が入るまで時間はかからなかった。電気はやられており、携帯電話による通話は緊急通報のみ可能(システム過負荷防止のための自動対策)となっていたが、携帯メールは通常どおりだった。至る所でみられるスマートフォンから情報源から震源地や地震のマグニチュードの情報が得られた。

危険はまだ去ってはいないことと6メートルの津波の可能性があることがすぐに伝えられた。

自然災害に関心を抱くものとして、私は地震そのものよりもこの情報にもっと心配になった。建造物なら巨大地震にさえ持ちこたえられるように建てることができるが、6メートルの津波の方がはるかに残酷で壊滅的であることを知っていたためである。そのあとまもなく津波の予測が10メートルに引き上げられたと聞いて、気が遠くなったのは言うまでもない。

この警告にもかかわらず、「危険は去った」と言われて仲間と一緒に11階にある会議室に戻り講演を終えた。停電していたため、私は会議室前方の聴衆に対してラップトップ1台を使って発表し、会議室後方ではもう1台のラップトップを見ながら話についてきていた。

体験したばかりのためか、私たちの討論は活発でありながらも緊張気味であった。意見交換は、余震と(私たちが知らないかのように)館内放送から流れる停電の案内によって何度も中断された。

北部で繰り広げられつつある惨状の全容を知らないまま、私たちは午後6時に討論を終えた。会食の計画が中止になるのは明らかであった。困ったことに、地震によって列車が全面運行中止になってしまっていた。整備士が線路を調べている間、通常は効率的な公共交通機関が完全に停止となった。歩道や街路は郊外に向かう人の流れで混み合っていた。

私のホテルまで徒歩3時間、タクシーは見つからなかった。私たちは思い切って冷たく(気温4度)風が吹きすさぶ(最大風速48キロ)道のりを歩き始めた。帽子を持ってくればよかったと思った。会話はすぐに東京以北に住む身内や友人の話になった。そのような話も何人かとメールで連絡がつくと小さな喜びの声に変わった。

ようやく川を超えて東京に入ることができると、都心に向けて少し先まで私たちを運んでくれるバスがあった。1時間ほどして、東京の高名な医師であり会議に出席されていたDenさんの自宅に到着した。車でホテルまで送ってもらうこともできたが、Denさんと妻のAdairさんがその日起きた諸事に配慮して、手作りの日本の野菜料理をご馳走してくれた。

幸い、このときまでには携帯電話サービスが復旧しており、家族に無事を知らせることができた。

私たちはGPSを確認し、都心への道路が全面通行止めになっていることがわかった。惨状の規模をまだ完全には把握していなかったが、起こったことの深刻さを受けとめ始めていた。このときには夜10時をまわっていた。親切にもご夫妻がそのまま泊まることを勧めてくださり、(断続的な激しい余震があったものの)書斎で眠ることができた。

もちろん、翌日の帰国便がキャンセルされたことは驚きではなかった。しかし、ありがたいことに、日曜日の3月13日には帰国することができた。その頃には、死者の情報、壊滅した地域、将来の不確実性が浮かび上がり始めていた。

振り返ってみても、私の体験などは、多くの日本国民に起こった現実に比べれば取るに足りないことであったとは承知している。しかし、研究者仲間の優しい気づかいともてなしに加え、私がこの目で見た彼らの精神力は、言葉では言い尽くせないほど素晴らしいものである。彼らは自分の身内に連絡がつかないときでさえ、自分の周りにいる人の安全と安らぎを確保することを第一に考えるのである。

世界各国からの援助と支援とともに、この不屈の精神が来たるべき厳しい年月にも日本国とその住民を支えていくことを確信している。

— Dr. James L. Gulley Director, Clinical Trial Group, Laboratory of Tumor Immunology and Biology Principal Investigator, Medical Oncology Branch NCI’s Center for Cancer Research

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ギボンズ 京子 訳

菅原 宣志 校正

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